Home まさる 「お茶碗一杯のエネルギー」が問いかけるもの —— AIと人間の“賢さ”の違いについて

「お茶碗一杯のエネルギー」が問いかけるもの —— AIと人間の“賢さ”の違いについて

ふと、考え込んでしまうことがあります。
私たちは今、AIというテクノロジーの進化に熱狂していますが、その方向性は本当にこれで合っているのだろうか、と。

その違和感の正体は、「エネルギー効率」の圧倒的な差にあります。

私たち人間の脳は、お茶碗一杯のご飯さえあれば、朝から晩まで複雑な思考をこなし、感情を揺らし、指先まで正確にコントロールして仕事をすることができます。電力にしておよそ20ワット。薄暗い電球一個分にも満たないエネルギーです。

翻って、今のAIはどうでしょうか。

人間のような流暢な言葉を紡ぐために、中規模都市が消費するほどの電力を使い、何千枚ものグラフィックボード(GPU)を焼き尽くす勢いで計算を回しています。これを見て、「すごい」と思うよりも先に、「何かがおかしい」と感じてしまうのは私だけではないはずです。

最近、OpenAIの共同創業者・Ilya Sutskever氏が現在のAIモデルに対して自戒を込めた批判をしていました。彼の言葉を借りるなら、今のAIは「数学オリンピックのために、過去問を丸暗記させられた学生」のようなものです。

確かに成績はいい。テストの点数は人間を超えるかもしれない。

しかし、その”丸暗記させられた学生”には「なぜそうなるのか」という本質的な理解もなければ、未知の問題に対する「ひらめき」もありません。ただ膨大なデータベースから、確率的に正解らしきものを繋ぎ合わせているだけです。

だから今のAIは、自分が合っているのか間違っているのか、自分では分かりません。
自信がないから、人間がもう一度確認してやる必要がある。

これはいわば、答えを出すために毎回図書館の本を全部読み返しているようなもので、あまりに「燃費」が悪すぎるのです。

この「燃費の悪さ」は、日常の些細な行動と比べると滑稽なほどです。

例えば、私たちが朝、玄関で靴下を選ぶとき。
「今日はなんとなく寒いから厚手にしよう」とか、「気分を上げたいから赤にしよう」と決めるのに、0.1秒もかかりません。

ここには、肌で感じる気温、その日の体調、気分の高揚といった「直感」や「身体感覚」が総動員されています。私たちはこれを無意識にやっていますが、実はとてつもなく高度で、かつ省エネな処理です。

もし今のAIのやり方で靴下を選ばせたらどうなるでしょう?

カメラで素材を分析し、天気予報APIを叩き、色彩心理学の論文を検索し、膨大な計算資源を浪費して、やっと一足を選び出すでしょう。

人間の脳が「感覚」として一瞬で処理することを、AIは力技の「計算」で解決しようとしている。ここに決定的な欠落があります。

私は仕事をする中で、この問題が技術論以上の深い根を持っていると感じています。

それは、私たちが「理性」や「論理」を過信し、「感性」や「情緒」を軽く見すぎているという点です。
特に日本では、論理的(ロジカル)であることは「正義」であり、感情的(エモーショナル)であることは「未熟」だとされがちです。

しかし、本当にそうでしょうか?

純粋な「理性」だけで世の中を見れば、新しい挑戦なんてできません。起業も、発明も、芸術も、理詰めで計算すれば「失敗確率が高いからやめておこう」となるのがオチです。

リスクを冒してでも前に進む力、諦めずにやり遂げる力。それは計算からではなく、「どうしてもやりたい」という非合理な「感情」から生まれます。

私たちが「理性的」だと褒め称えている態度は、実は単に「計算高い臆病さ」なのかもしれません。
そして今、AIもまた、その「計算高い優等生」の道を突き進んでしまっているように見えます。

「一膳のご飯」で動く人間の脳。
そこには、現代のスーパーコンピュータが束になっても敵わない、究極の効率と「生きるための知恵」が詰まっています。

私たちが目指すべきは、電気を浪費して正解を検索するだけのAIではなく、人間のように痛みを知り、直感を持ち、少ないエネルギーで本質を掴めるような、そんな「温度のある知性」なのではないでしょうか。

技術を扱う会社だからこそ、計算機のスペックに溺れることなく、生物としての人間が持つ「泥臭い賢さ」への敬意を忘れない。

そんな視点で、これからの未来を作っていきたいと、私は自戒を込めて考えています。